昭和52年10月27日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが、心で殺すのが思い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのはお上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
 三井教会の初代荒巻弓次郎先生が、ご本部の御修行を終わられて愈々帰られる前日に、奥城に座って、「これからお道の教師としてお取り立て頂く訳でございますが、私が一生守らなければならない、一生心に掛けておかなければならない御教えを頂かして下さい」と言うて、奥城に座って一晩中御祈念をなさったと言う事です。その時にお頂きになられたというのが「こりを積ますな、こりを積むな」と言う事であった。
 そして「身を慎め」と言う事であった。「こりを積ますな、こりを積むな」「身を慎め」と言うのである。なかなか難しい事です。こりを積ませないと言う事は非常に難しい。こりを積まないと言う事はまあ自分の精進で出来るかも知れませんけれども、こりを積ませんというのは、大変難しい。まあこりを積ませると言う事は今日の御理解から言うと、人を殺すとまでは行かんでも、人の心を傷つけると言う事。
 それがやはり殺せば、それだけ罪が重うなる訳でしょうけども、やはり傷つけてもやはりそれぞれのお仕置きがある筈ですはね。神様からのちゃんとお裁きを心の上での事でも、やっぱり受けなければならない。段々信心を頂いて本当の事が判って来、段々人物が大きく豊かになるに従って、こりも積まさんで済むしまた自分でこりを積む様な事もない。人を傷つける様な事もないし、又は人から傷つけられる事もない。
 私共が知らず知らずのうちに人の心を傷つけて、そして傷つけたと言う事での神様からおかげを差し引かれておると言った様な事も、沢山あろうかと思います。どうしておかげを受けなかったのだろうか、受けないだろうかと言う様な中身にそういうものがありはしないだろうかと。やっぱり時折はそれを思うて見なければいけません。確かにおかげの頂けれるはずの信心を大体さして頂いておるのに、おかげが受けられなかった。
 それがおかげが受けられない。本当におかげを受けると言う事に対して、一分一厘間違いのない神様だなと言う事が判ると同時に、それと反対の事の場合も、神様の働きは一分一厘間違いがないと判らせて頂かなければ、本当のこっちゃない。ただ自分に都合の良いおかげを受けた時だけ有難いのであり、間違いがないなと判るのではなくて、それと反対の時そして成程こんなに自分の心で人を殺し、殺しはせんでも傷つけておる自分。そう言う所からおかげが言わば崩れておるなと、言うふうに判らせられるところから、改まったまた次の信心が出来るように思います。
 昨日研修の時に西岡先生が言っておられました。今度末永先生があちらから帰ってきて、人物が大きゅうなっておられると言う事に、本当に驚きもし感心もしましたと言う事で、是は私もそれを感じておりました。そしたら皆やっぱそれを言うですね。今までの末永先生の何か言う事する事に、カチッと来る様な所がありましたですはね。所がそれが全然なくなっておる。やっぱり真剣な信心せにゃ駄目ですね。半年余りの間にそれこそ真剣な信心が末永先生をして、一回りも二回りも大きゅうしておる。
 今までは随分こりを積ませたり積んだりもしておっただろうけれども、あれだったら積ませる事もなかろう。また自分も尚更積む事もなかろうと言った様な感じですね。お互いの場合は、ずうっとこう見ておりますからかも分からんけれども、代わり映えがしない。本当に相済まん事だと思います。昨日西岡先生が言っておられましたが、あちらの新聞に、救世主じゃない「日本から主来る」という見出しで新聞に出たと言う事です。まあ言うならば、救いの主と言う意味でしょうね。
 そりゃまた本当にそうだろうと思われるような御比礼が輝いたわけです。私はもう本当に驚くというよりも、神様の働きが間違いないなあと言う事をです。昨日もそのことを話したんですけれどもね、ならここに沢山の修行生がいますが、その修行生の人たちが良いの悪いのじゃない、その良いも悪いも皆私が持ってるんだと。類が類を以て集まるというからね。だから私の場合には、そのいろんな長所欠点を持っておりますけれども、その欠点と言う様な所が、何かの機会にはっきり判った時には、その欠点に本気で取り組んで来た何十年だったと言う事なんです。
 同じ様なものを持って居ろうけれども、そこんところが私は少し違うように思う。けれどもその本質的には内容にそういう、皆さんと同じ様なものを私は持っておる。だから言わば同類項である。いかに私が威張った所で皆さんが持っておられる、汚いもの悪いものを持っておられるなら、はあ親先生もやっぱこう言うものを持っとるなというてもろうていいのであるけれども、それを何かの機会に切掛けが出来たときにです。
 今度中村徹美君が、一週間ばかり帰らされたわけなんです。まあそれこそこんな事も前代未聞だろうと、学院生が帰されたてなんてんと言う事は。ところが何と神様の演出の素晴らしいと言う事は、とにかく学院生が皆でそれこそ嘆願書を出した。記念祭に帰らしてくれと。ところが何回お願いしても出来ん。じゃ最後にあんまり煎じ詰めて「帰るなら帰れ」とこう言われた。だからこれには学院生も帰る訳にもいけんのに、おる所へ丁度前々日にひょっこり帰ってきた。
 電話で「僕が徹美君を帰したから、そちらでもう一遍修行をし直さしてくれと。し直してまたこちらへやってくれ」という電話であった。若先生が二十一日の日に連れて行きましたら学院長が「中村君以下の者がまあだ幾らもあるですけれども、分がまあ悪かったんだ」と言う様に言われたそうなんですけれども、その後に彼から手紙が参っておりますが、もう本当にこちらへ帰らして頂いて帰る道中にもうどうにも、本当に足が重かった訳ですけれども、御広前に着かせて頂いたら親先生がおかげ頂いたなあち仰った。
 もうそれだけで何かすうっとしたが、早速御大祭のご準備に一生懸命にならせて頂いとるうちにこんな感動を覚えたことがなかった程しの感動を覚えたと書いております。手紙に。もう是から学院を卒業するまで、一滴のお酒も頂かんつもりで、失敗どもがあってはならないとお誓い申しますと言う様な事も書いてあった。本当に黙って治めると言う事は素晴らしいですね。「今度帰るならもうあんたがまた酒ば頂くごたるこっちゃまた失敗を繰り返すばいと。
 今度いっちょ酒だけは飲まんばせんばい。」と言うて聞かせて分らせると言った様な事は実に詰らん事。自分自身がやっぱりその気にならなければね。もう本当にまあ素晴らしい言うならば変わり方、そういう普通ではないような、何か切掛けが出来た時にです。これは自分の欠点だと判ったところを改めて行くと言う事。私共でもならここに集まってくる私の同類項、ですから皆さんとも同じようなものを持っておるのだけれども、私はおかげを頂いて行く。
 皆さんが例えばおかげ受けないと、こうするならば同じ物を持っておるにも拘らず、私がおかげ頂いて行くというのはそういう、言うなら段々年数が経るに従ってです。何かそういう、言うならば変わったことでも起こってくる都度都度にそれを改め、それを取り除いて行く精進をしてきたところが、違うのじゃないかと言うふうに思うです。これはもう人間だから、これはもう私の性分だからというふうにせずに、それを改まって行く。自分で気付くじゃない、人からも気付かしてもらう。
 昨夜昨日もそのことを、大体合楽の評判が悪いというのは、どう言う所が評判が悪いのだろうかと言う事を何時も皆に問うんです。それが枝葉にもならない様な事が、悪い評判の元になっておる場合は、だけれども実際に評判が悪いと言う様な事の元があるとするならね、これは本当に合楽教会として改まって行かなきゃならんからと、何時もそこに改まろうとする姿勢を作っておると言う事。
 人にこりを積ませる。又はそのために自分が積む。積まんと言う事は、これは言うなら黙って治めるという生き方が身に付いてくる限り、こりを積まんで済むんですけども、こりを積ませるということはです。なかなか難しいですね教会としても。今度の私は何人かの御大祭のご盛大な様子を見て、それに腹の立って腹の立ってたまらんと言う様な先生、の態度に触れて本当になる程なあ、人間にはこういう汚いものがある。
 はぁもう手を握って「先生御盛大でおめでとう」と言うて下さる先生もあるかと思うと、もうとにかくもう、私の面でん見ろうごとなかちゅうごたる顔をしておる先生方もあった。こちらがご迷惑掛けておるから地を低うして、またご挨拶さして頂くと、はっと自分も気が付いたようにそれこそ、座ったお座布団から滑り落ちるように、座布団から下りて、改まって御大祭のご挨拶をされるといったような方もあった。
 だからお道の先生でもそのくらいですから、ホッとやっぱ何かこうピントが当たるとね、はあ自分は何ちゅう汚い事を、考えとったじゃろうかというふうに、思い当たるのじゃないだろうかとこう思う。言うならばこりを積まんで済むけれども、相手にこりを積ませておるという、そういう例は沢山あります。だからこれも仕方がないと今までは思うておったけども、仕方がないのじゃない。こちらがもっと「成程大坪さんがおかげ頂きなさるはずだ」と。「合楽がおかげを受けるはずだ」と。
 本当に誰からでも言われ思われるだけの、やはり一つの教会の徳というものが、出来なければならないなというふうに思うですから、こりゃなかなか難しい。恐らく一生かかっても出来ないかもしれんと思うくらい。けれどもそれはね、もう本当に心を傷つける事。本当にまた自分が心を傷つけられる事。これもやはり精進して行かなきゃならない。それこそ末永先生じゃないけれども、一回りも二回りも大きくなった。
 もう合楽理念の行者としての半年間が、言うなら徹底して行くところに、あのように人物も、言うならば人触りも全然違った感じで、私共が受け止められたと言う事ではなかろうかとこう思う。合楽理念はそういう本当の言わば、それを行じ貫く時に、私共の人柄までも変えてくれる。ですからおかげも一回りも二回りも大きゅうなる。末永先生今度帰ってくる時に、あちらの御信者さん方の写真やら、いろいろ持ってきておりましたのを見てから私驚いた。
 もうとにかくあちらの現地の人達の、主立った御信者さん達の写真の、もうその人達の品の良い事、人相の良い事に驚きました。言うならば同類項です。ブラジルの現地の人達はあんまり人相の良くない様な感じだった。感ででですよまぁどげんとが集まってくるじゃろうかと思いよった。所が所謂同類項が集まって来とるです。色は黒うても色は白うても、黒人白人現地人、様々な人が沢山集まって来るんですから。
 本当に西岡先生に話して帰ったそうですが、もう親先生が本当に何千人の信者を擁して、あれを動かしなさらない。ここん所の信心がどういう信心から生まれてくるのだろう。ここん所を私も受けて行きたい。そりゃもうあちらへ参りましてから、六千人からのお参りがあっとります。そりゃなんもない所からですよ、しかも日本人よりも外国の人達の方が多いというのです。そして集まってきて御用でも出来ると言う人達の、言うなら信心とか、その心の状態とか人相というのがです。
 本当に末永先生があれだけ豊かに大きく、言わばなって何とはなしに、言わばこりを積ませんで済む、積まんでも済む程しの人柄が出来てきておるのですから、その同類項が集まっておると言う事を感じたんです。あちらであちらのブラジル語をずっと毎日教えに来て下さるという、中学校の校長先生しておられる。それから内輪で弁護士をしておられて、お兄さんは何かあちらで、何とか大臣なさっておられるという家柄。
 名門の方私はもう本当にそれこそあの教会と言やあ、教会とは名ばかりの言うなら何の設備もないこの辺で言うならば、掘っ立て小屋のような家に住んで布教させて頂いておる先生とこにどうして現地のこういう立派な人たちが集まってくるだろうかと。お医者さん弁護士さん学校の先生と言ったようなのがずらり、しかもその、何とも言えん品の良い人たちばかりです。上品でね結局同類項なんです。私は何時言うんですけどもね。自分方の使用人とか、またはお店のお客さんの客筋とかいうことでもです。
 やはり中心の人が豊かな立派な人になれば、集まってくるお客さんでも立派な人が集まってくる。従業員でも、絶対良い従業員が集まってくるです。それこそ類は類を以て集まるです。だからますますこちらが豊かに大きく言うならば、人に傷つけたり又は自分が傷ついたりせんで済む程しの信心が出来た時です。初めて私そういうおかげもまた頂かれるということになるのです。
 そりゃもう本当にまあ何というでしょうかね、私ももう思いも掛けないあちらの現地の人たちの、言うなら教養もあり、言うならば家柄人筋も良いと言った様な人達が教えを求めて集まってきておると言う事なんか、本当に素晴らしいことであると同時に、中心である先生自身が、それだけ豊かに大きく、品も良くなったからだと言うふうに言わなければならんと思うんです。
 ですから愈々以て人を殺すとかというと、それでもやっぱり人の心をぐちゃぐちゃにですね殺すような、たった一言で一突きでブスッと突き殺す様な事を言うたり、態度にとったりする人がありますよね。だからそう言う様な例えば場合であっても、こちらが黙って受けると言う様な生き方で、相手の事を祈るようなおかげを頂けばね、それでこちらは傷つかんで済むわけ、こりを積まんで済むんですけれども。
 それは普通の人はやはりそれこそ「あの人から言われた一言が、それこそ一生忘れん」と言う様な事を平気で言う人があります。そしてそういう人を傷つけたり殺したり、そう言う様な事がです。ならおかげをまた壊してしもうておると言う事になると、どうでもやはりそう言う事ではない自分、愈々大きく豊かな私にならきゃならんと言う事になります。いろんな場合にどういう場合であっても、それを黙って治めるというか、御神慮の程をいよいよ悟らしてもろうて行くという。
 言うならば、合楽理念を以て愈々徹して行く時にです。何時の間にか豊かにそれこそ品まで良くなっておると、言う様な内容が頂けなければならない。そして傷つける事のない、いやむしろ相手の心が傷ついておる人達が、癒して行けれる程しの内容を頂きたい。昨日末永先生の話が出ましてから、そのことをしきりに思いました。西岡先生だけじゃない私だけじゃない、皆がそれを言う。
 「確かに末永先生は一回りも二回りも大きゅうなっておられた」と。私共が本気で一つ大きゅうなろうとして大きゅうなれるのじゃない。私は教えを本気で行じて行くうちに、何時の間にか大きくなり、豊かになっておるでなからなければ触りが悪い。ただ自分が我でこう直そうとしておるのじゃなくて、何時の間にか内容から変わってくるのですから、言うならば人触りなんかでも、言葉一つの使い方でも変わってくる。
 そういうおかげ。殺す傷つけるこれが言わば重い罪ぞと言う事は、そこに罰金を治めねばならんとか、監獄に行かなければならんとか言う事になるのですから、それだけ私共のおかげの、言うならば差し引きがあっておると言う事を思うと、これはただおかげを頂くことだけを体得して行くだけではなくて、頂いたおかげを落とさんで済む生き方。愈々こりを積ませず、こりを積まんで済む信心修行がいるなと言う事を思いますね。
   どうぞ。